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昭和回顧録

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公開日:2020/12/12

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空襲からの復興

昭和20(1945)年7月12日夜、各務原市内の広範囲に空襲があり、多くの民家が焼失しました。蘇原持田町では民家3戸、蔵1棟、寺の庫裏1棟が焼けてしまいました。

当時の被災者Tさんは、「母屋が焼けたので、納屋に床を張り、家族5人が雑魚寝を強いられる不自由な生活でした。戦後間もなく、家を新築することになりましたが、2間だけの小さな家しか建築許可が下りませんでした。父が病死していなかったので、10代半ばの兄や母が、義兄や親戚に手伝ってもらいながら、持ち山でマツやスギなどを伐採し、枝を切り落とした木材を道路まで引きずり出し、大八車に載せて、那加山崎町の加藤製材所まで運んで、建築用材に加工しました。小学校低学年だった私も手伝いました」と、話します。

持田町の西嚴寺(さいごんじ)では、昭和29年に門徒の寄進と勤労奉仕により、焼失した庫裏を再建しました。

寺の図書館を解体し、その柱や梁(はり)などの古材を使い、足りない部材は境内のスギ、マツ、クリ、シイ、サクラの木など、太くて建材になりそうな樹木を伐採し、寄進された木材とともに、大八車やリヤカーで蘇原古市場町の坂井製材所に運んで、製材・用材に加工しました。

境内の真竹(まだけ)や淡竹(はちく)を伐採して、指定の長さに切り揃え、それを割って壁下地用の竹を準備しました。

壁土や屋根葺き土は、裏山の赤土をツルハシやクワで掘り出し、担架のように2本の竹にムシロをくくり付けた「モッコ」に載せて、2人1組で運び出しました。一輪車は、まだ普及していませんでした。境内に積み上げた赤土は、短く切ったワラと水を加えながら足でこね、粘りを出して粘土状に加工しました。

クレーン車はありません。建前の当日の材木の運搬・つり上げ、組んで建てるなどの作業にも、大勢の手伝いの人が必要でした。

専門の大工・左官・屋根葺き職人が主な作業をするのですが、現代ならば請負の工務店で行うような準備や補助的な作業を、この時代は家族・親戚・門徒が力を合わせて行っていたのです。

 

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門徒の力で再建された、西嚴寺の庫裏

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