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「○○ちゃんは“カラス”にしよう」

NEWS

公開日:2024/11/13

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昭和20年代から30年代前半期のころは、子どもたちは、オモチャや遊び道具を自分たちで作って遊んでいたと先月書きました。

その他に、

・大勢の子どもたちが集団で遊ぶ。

・手に入る、限られた遊び道具を使って遊ぶ。

・遊びのルールは、その場にいる子どもの数や、そこにある遊び道具などを見て、臨機応変にルールを変更して遊ぶ。

などの特色がありました。

山神講や子ども会で大勢の子どもが集まったときに、自動車がほとんど走っていない時代だったので、公民館の広場、神社や寺の境内、家の周りの道路などで “軍艦遊び”を行ないました。

“軍艦遊び”は、一方はこちらの電柱、他方は少し離れてお互いが見通せない所の松の木というように、二つの基地を決め、野球帽をヒサシ前か、横か、後ろかでグーチチョキパーのジャンケンのように勝ち負けを決め、鬼ごっこをする遊びです。物陰に隠れて敵の子どもを見つけ、自分が勝つ帽子をかぶっている子にタッチをすると、相手は戦死したことになりました。自分は陣地に帰り、また帽子のヒサシの向きを変えて、戦いに赴くというものです。

十数人の子どもが集まった時は、“肉弾遊び”(“宝踏み”と呼んでいた地域もありました。大堀等さん談)をしました。グラウンドに野球のダイヤモンドのような四角を2つ描き、相手のダイヤモンドを囲むように通路を描く。ダイヤモンドと通路が自分の領土。ダイヤモンドの一番奥に、宝を描く。自分の領土から通路を伝って出撃する。通路を通る時に、相手の陣地から攻撃され、通路の外に押し出されると戦死。うまく逃れて、敵の陣地に入り込み、最後に宝を踏むと戦勝という宝獲り陣取り合戦です。神社の境内や、小学校のグラウンドで遊んでいました。

太平洋戦争が終わってあまり時間が経っておらず、まだまだ戦前の軍事色の強い遊びが残っていました。

漫画やアニメーションに見る子どもの遊びの王道は、草野球です。しかし野球バット、ボール、グローブなどの道具が必要で、だれもが持っている遊び道具ではありませんでした。ボール遊びができる広場も必要です。

蘇原持田町の子どもたちは、手に入った軟らかいゴムボールを使い、素手をバット代わりに、グローブがないのでボールは素手で取っていました。公園や広場はありませんでしたので、白山神社の境内で遊びました。そこは、石の灯明や石灯籠や樹木があり、一塁から二塁は十数㍍、二塁から三塁は十㍍程度しかなく、規定の塁間27.5㍍の四角いダイヤモンドを描くことができません。そこで子どもたちは、ホーム、一塁、二塁だけの“三角ベース野球”を行ないました。小川豊一さんの記憶では、そのゲームを “オンチャンベース”と呼んでいました。名前の意味や由来は全くわかりません。

あるとき持田町の子どもチームは、蘇原(現第一)小学校の校庭で、別の町のチームと対戦を行ないました。持田町の神社では普段、ヒットや場外ホームランを打っていましたが、小学校のグランドに描いたダイヤモンドは広く、打っても内野ゴロにしかならず、完敗で消沈して帰った覚えがあります。

遊びに集まってくるのは小学生でしたが、低学年の子どもや幼稚園児はルールが理解できないので、メンバーとして一緒に遊ぶのが難しいことがありました。そんなときは、「○○ちゃんは“カラス”にしよう」と言って、みんなと一緒のルールを適用せずに、その子だけの特別甘いルールを適用し、一応仲間に入れて遊びました。

ニュースイメージ1

子どもたちが遊び場にしていた蘇原持田町の白山神社境内

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