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遊び道具は子どもの手作り

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公開日:2024/10/06

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昭和20年代から30年代前半期の“子どもの遊び”について聞きました。

高度経済成長以前は、庶民は貧しく、特に現金収入の少ない農村部では、生活に必要な最低限度の物しか買わない、自給自足経済の要素が色濃く残っていました。当然、子どものおもちゃや遊び道具は少なく、たとえ売っていたとしても、親は簡単には買ってくれませんでした。

「姉が3人、兄と私の5人兄弟の末っ子であった私には、兄や姉に比べれば、母親は“甘かった”とは思います。昭和20年代前半、私が小学校の低学年だった時に、友人間で“こま遊び”が流行っており、母親に“こまが欲しい。こまを買って欲しい”と、何度も何度も頼み、1週間以上にわたってわがままを言いましたが、母親は全く取り合わず、買ってくれませんでした。今から考えると、わが家は農家で米は作っており主食はありましたが、父は病気で亡くなり、家は空襲で全焼し、おそらくこまを買う金銭的な余裕が全くなかったのだと思います」(風間辰夫さん談)

そこで、子どもたちは自分でおもちゃを作って遊びました。

夏になると、直径5~6㌢の竹の1節を切り取った竹筒を砲身に見立て、その節の部分に小さな穴を開けて水の出口にし、ピストン部分は竹棒に布きれを巻き付けた“竹水鉄砲”を作りました。布きれは水を含むと膨張し、水は漏れません。

子どもたちは、少しでも強力な水鉄砲を作るため、節の間の長い竹を選んだり、節にうがつ穴を工夫したりして、竹水鉄砲にいっぱいの水を吸い込み、水をかけあいながら走り回るだけですが、子どもにとっては大変楽しい夏休みのひとときでした。

秋になると庭木の万両(まんりょう)が実をつけるので、それを弾にした“万両鉄砲”を作りました。材料は、“おなご竹”と呼んでいた女竹(めだけ)を使います。

どこに女竹があるのか、その竹は誰の所有か、生えている竹は今年生えた新しいもので工作に向かないか、経年の竹で工作に適しているか、子どもたちはよく知っていました。

早春には、未熟なかたい杉雄花を弾にして飛ばす“杉鉄砲”を作りました。

弾になるものがないときは、新聞紙を口で噛んでガムのように軟らかくしたものを弾にした紙鉄砲を作りました。

雪が積もると“竹スキー”を作りました。1㍍程度に切った竹を2つに割り、竹のササクレや節などを、持っている自分の“肥後守ナイフ”で削り取り、けがをしないように加工します。次に、端から15㌢程度の所に、V字の切り込みを入れて、火であぶって軟らかくして、竹を曲げ、冷たい水に突っ込むと、形が固定され、トップ部分が曲がった竹スキーが完成です。ゴム長靴を、わら縄でくくり付けて長靴が外れ、少しもうまく滑れませんでした。

岐阜に比べれば気温が低く、水田の水が凍って厚い氷になる福島県では、スケート靴のエッジ代わりに、下駄の歯に建具用のレールを打ち付けた“スケート下駄”を作り滑ったそうです。氷が割れることはありませんが、打ち付けたレールはすぐに外れて、やはりうまく滑ることができなかったそうです。(福島県生まれの小川八郎さん談)

その他に、竹とんぼ、ゴムパチンコ、竹馬なども作りました。

昭和34年に各務原市蘇原北山町に“岐阜カンツリー倶楽部”というゴルフ場が建設されると、子どもたちの通学路脇に落ちているゴルフのロストボールを拾い、持ち帰って、ゴルフのマネをして遊ぶようになりました。

ゴルフクラブは、切り株に垂直に伸びる発育のよい枝(徒長枝=とちょうし)をシャフト部とグリップ部に、切り株部分をヘッド部分に使い、球の当たるクラブフェース部分の傾きの度合いを工夫しながら作りました。他人の山の木を使うことは許されませんでしたので、黙認される神社の森で、手頃な切り株を見つけ、切り出しました。

遊ぶ場所は、農閑期で人のいない、ボールを飛ばしても安全な、冬場の水田です。小高い土手から、水田に向かって打ちます。“打ちっ放し”というわけにはいかず、ボールは自分たちで拾いに行きます。水田に作物はありませんし、草は枯れて茶色になっていますので、白いボールは容易に見つけることができました。

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竹水鉄砲作りに良さそうな太さの淡竹(ハチク)と、タケノコを採る孟宗竹(モウソウチク)の入り交じった竹やぶ

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