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昭和34年 学校給食始まる

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公開日:2024/07/01

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戦後の混乱期には、学校に昼食弁当を持ってくることができず、昼休みは学校の裏庭などで時間をつぶし、何も食べないまま、空腹を抱えて午後の授業を受ける児童もいたことは以前にも書いたとおりです。担任の教師はその状況を知っていても、自分や自分の家族の食料さえままならない時代、見て見ないふりをするしかなかったと聞きます。

その後、食料事情はしだいに改善されていきましたが、昭和40年ごろまでは庶民の食料不足は続いていましたので、子どもにも、親にも、学校の教師にも、小学校の学校給食は大変ありがたいものであったに違いありません。

蘇原小学校(現 蘇原第一小学校)は、昭和30年代の前半に鉄筋3階建ての新校舎が建設され、校舎の裏に給食調理室が新築され、給食を始めるための試行期間の後、昭和34年に完全給食が実施されたと記憶します。

当時の食器は、ゴールド色のアルマイト製のパン皿、小鉢風の中食器、ミルク用の小食器。食器をのせるプレートはなく、代わりに各自持参した厚手の布巾に食器をのせました。箸、お茶用のコップは各自が持参しました。給食着の給食エプロン、帽子、マスクなどはなく、普段着で配膳していました。

四角い食パン、あるいはコッペパン、マーガリン、ナイロンの小袋に入ったジャム。脱脂粉乳を溶かしたミルク。副食のおかずは、少しだけ肉が入った野菜あんかけ、クリームシチュー、魚のフライ、鯨肉の竜田揚げ、マカロニサラダなど。チーズなども出されました。お茶は、やかんで出されました。

配置された栄養士は、少ない給食費の中で、ミルク、マーガリン、チーズ、マヨネーズ、鯨肉、魚など、家庭ではほとんど口にすることができない珍しい食材を使った、栄養のバランスの良い新しい料理で、子どもの健康・栄養管理・体力増強などに重点を置いていました。

給食指導をするクラス担任の教師も、食事マナー、栄養管理、偏食を厳しく指導していました。“食事の好き嫌いは、子どものわがまま。社会性が未発達”と認識し “偏食を無くす”ことが給食指導の目標の1つとされ、担任は残さず完食することを強く指導しました。食べ残した給食を前にし、苦しみながら口に運び続け、午後の授業が始まる直前に、やっと担任の許しが出て、給食を終える姿をしばしば見ました。「肉を全く受け付けない体質であったので、小さな肉片でも口にすることができず、こっそりお茶のコップに肉片を隠して家に持ち帰りました」という話も聞きました。

「貧困な時代に、全ての生徒にお腹いっぱい昼食を食べさせる」「栄養のバランスの良い昼食で、子どもの体力を増強する」という教育目標があり、「おいしく食べる」「楽しい時間を持つ」という事は、あまり考慮されていなかったと思います。

授業時間の机の並びを崩さずに、整然と、静かに給食を食べており、友だちが集まり輪になって雑談をしながら楽しく食べことはありません。

古老に聞いても、「家では食べた事のない物を食べた」「給食で初めて口にした」という話は聞きますが、「脱脂粉乳ミルクは、生ぬるく、薄皮がはり、香りも悪く、おいしくなかった」「初めて食べたチーズは、石鹸の匂いがした」「パンは味がなくおいしくなかった」などという話が多く、「給食がおいしかった」「給食が楽しみだった」という話は、あまり聞きません。

今は“食品アレルギー”の理解も深まりました。“子どもの好き嫌いはアレルギー体質も要因としてあり、わがままや社会性の未発達ではない“と認識されるようになり、学校の給食指導も変化しているようです。

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写真は現在の蘇原第一小学校(令和6年) 昭和30年代は、学校で給食が作られており、写真の場所付近で調理されていた。今は給食センターから配達されているようだ

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