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冬にだけ出された味噌汁の給食

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公開日:2024/05/17

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現代は飽食の時代ですが、昭和40年代までは庶民は飢えており、肥満とは無縁でした。

昭和20年前半の食料事情は、今では考えられないほど厳しい状況にありました。

故小川道春さん(蘇原持田町)の思い出話によると、岐阜商業学校(高校)に自転車で登校途中に不良少年に絡まれ、脅されてお弁当を巻き上げられたことがあったそうです。弁当を巻き上げた少年は、よほど空腹であったに違いありません。

各務原市の蘇原小学校(現 蘇原第一小学校)では、持田町など遠距離から通っている生徒はお弁当を持ってきましたが、家計を助けるためであったか、学校の近くの生徒は自宅に帰って昼ご飯を食べてから、午後に登校しました。

なかには家が遠くても、お弁当を持って来られない子どももいました。彼らは昼食時間になると教室を抜け出し、校舎の裏などで時間を潰し、空腹を抱えたままで午後の授業を受けていました。(故小川唯夫さん談)

クラス担任はそれを知っていましたが、自分自身の昼食もままならない中、見て見ぬふりをするしか仕方がなかったそうです。

小川豊一さんの思い出話です。

「わが家では米は高価で貴重でしたから、量(かさ)を増やすために、大麦・サツマイモ・大豆・大根などを入れて飯を炊いていました。母は、お弁当に詰める時、麦やイモや豆を除いて、腹持ちがよく空腹になりにくい米だけを選んで詰めてくれました。おかずは、梅干しやたくあんだけで、他は何もなかったと記憶します」

「今なら、電子レンジで“チン”をして弁当を温めますが、当時は電子レンジなどあるはずがありません。冬になると教室には石炭ストーブが設置されましたので、ストーブの近くに冷たくなった弁当を並べて、温めました。少し後の時代には、弁当を温める専用のボックスが配置されました。同時におかず類も温まり、独特のたくあんの臭いが教室いっぱいに広がりました」(小川高義さん談)

「私が通った頃の蘇原小学校では学校給食がありましたが、昭和30年代後半、蘇原中学校では給食がありませんでしたので、お弁当を持って行きました。当時の流行の弁当箱は、深さの浅いブック型で、おかず入れは別の容器で、汁物がこぼれないようにゴムパッキンが付いていて密閉できるものでした。よく入っていたのが、豆・里芋・大根・サツマイモ・カボチャ・ニンジン・ゴボウなどの野菜の煮物と昆布・貝の佃煮。卵焼き、ちくわ、魚肉ソーセージが入ることはまれであったと記憶します」(小川輝良さん談)

私(筆者)の弁当は、いつも麦ご飯やサツマイモ入りご飯で、わが家の貧しさを象徴しているようでなんとなく恥ずかしく、友人に覗かれないように、弁当箱を手で覆い隠し、孤独に食べていました。友人と輪になってガヤガヤ雑談をしながら、楽しく昼食をとった記憶は全くありません。

「記憶に残っているのは、冬になると中学校で野菜入りの味噌(みそ)汁が出たことです。当時、1クラスの定員は50人、蘇原中学校は各学年に3~6クラスだったので、700人以上の生徒がおりその味噌汁の量は大量でした。当番に当たった保護者が、自宅から大根・ゴボウ・ニンジン・白菜などを切り揃えた野菜を持ち寄り、朝から準備して作ってくれました。農家では、毎年のことなので子どもたちのために、大根や白菜などの野菜を栽培し準備していました。農家でない家庭は、おそらく野菜を購入していたに違いありません。日によって具の多い日と、少ない日がありました。」(小川高義さん談)。

味噌汁には、手の指の爪ぐらいの小さな白い豚肉の脂身が浮いているのがご馳走でしたが、豚肉を食べた記憶は全くありません。

学校給食が始まる以前、蘇原小学校でも冬季だけ味噌汁が出されたと聞きました。1500人以上の生徒の分を、学校のどの場所で、だれが作っていたのか。どんな設備があったのか。食材や燃料の購入・準備などは、どのようにしていたのか。費用は公費であったのか、集金していたのか。今となっては、聞くことができないのが残念です。

ニュースイメージ1

ブック型のアルミ弁当箱(小川輝良さん蔵)

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