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郷蔵=ゴグラで家(うち)みそ造り

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公開日:2023/09/08

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高度経済成長以前の農村は、現金収入がありませんでしたので、できる限り物を買わないで、自給自足生活をしていました。

和服の生地は、クズの繭から糸を取り、機織り機で織り布にしていました。

お茶は、生垣などで栽培している茶木の葉を摘み取り、蒸し、揉んで、むしろに広げて乾燥させ番茶にしました。

畑で黄色い花をつけ、ササゲのようなサヤに実をつけるハブソウを栽培し(よく似たエビスグサがある。実際に栽培されていたのが、エビスグサかハブソウかは不明)、その実を焙煎してハブ茶としていました。

炊事の燃料はまきでしたから、湯を沸かすことはガスや電気のように容易ではありませんでした。お茶もハブ茶も急須は使わないで、少しの茶葉を茶袋に入れ、茶釜で煮出してお茶を作っていました。

みそも手造りで、自給していました。原料の大豆は、水田のあぜで栽培しました。大豆は、窒素肥料が多いと、茎や葉だけが茂り、実が成らないので、種をまくときにひとつかみの灰を肥料にするだけでした。この種まきは、子ども仕事となっており、小~中学生の時に行っていました。(持田町 小川豊一さん談)

蘇原持田町には、土壁で囲まれた“郷蔵=ゴグラ”と呼ぶ8畳間ほどの瓦屋根の土蔵があり、ここをムロとして使い、秋に収穫した大豆は使って、家(うち)みそと呼ぶ自家製みそを造っていました。

“郷蔵”は、元々は江戸時代の“郷倉”という年貢米を保管する倉庫で、村の庄屋の屋敷にあったそうです。持田町の郷蔵も、昭和20年代は畑になっていましたが、庄屋屋敷と伝わる一画にありました。

明治15年の(持田)村方規約の第一条に「田畑稲麦および諸作物作を盗み取った者は、罰金3円及び村方郷蔵にて3日間拘留する」との規定がありますので、村で起こった窃盗などの犯人を罰として拘留する牢としても使われていたようです。

その郷蔵を、いつ頃からみそ造りのムロとして使い始めたかは不明です。蔵の入り口には物の出し入れに使う大きな扉がありましたが、そこをムロとして使う時は、室温を下げないようにするためか、しゃがんで出入りする小さな扉を使いました。郷蔵の軒下には、豆を蒸すかまど、休憩や仮眠をとる仮設の部屋はありましたが、井戸や水道はありませんでしたので、加工に必要な水は、近所の民家の井戸から“もらい水”をしていました。

みそを造るこうじをどのように準備したかは不明ですが、おそらく、共同で購入したと思われます。

作業は、親戚や隣近所の2~3軒が共同で行いました。冬になると割り当てられた日に、前日から水につけてふやかしておいた大豆や燃料のまきを持ち込みます。鉄製の簡易かまどにハソリという大鍋を乗せ、湯を沸かします。沸騰して湯気が上がってくると、セイロという蒸し器をのせ、そこに大豆を入れ、時間をかけて、柔らかくなるまで蒸しました。大豆の量が足らないときは、大麦を加えました。

蒸し終わった大豆はこうじを振りかけ、横幅40~50㌢、長さ80~90㌢程度の浅い木箱に広げ、郷蔵に設置した棚に積み上げます。炭や練炭を燃やし室温を保ちながら、泊まり込みで、2~3日間かけてこうじを育てます。

こうじが育った大豆は、家庭に持ち帰り、大きな木桶や瓶に詰め込みます。均一にこうじが育つように、時々かき回し、1年ほど熟成させると完成です。

家みそは市販の赤みそとは全く別物で、赤みそより少し色が薄く、独特の香りと味で大変おいしく、栄養も豊富でした。水分が多いので、箸で取り出すことはできませんでした。柄杓ですくい取り出し、すり鉢ですり、残っている大豆をペースト状にしてから、みそ汁やみそ煮込みうどんに使いました。上澄みは、醤油として使いました。

みそ汁の味が薄いときには、みそを足すのではなく、塩を足して味を調節するなど、年の途中でみそがなくならないように、大切に使いました。

熊田町在住の小川泰鉄さんの思い出話です。

「昭和27~28年のことです。泊まり込みで作業に行った父親が朝になっても帰って来ないので、心配した母に様子を見てくるようにと言われ、兄と一緒に郷蔵に行くと、父が気を失ってムロの中で倒れていました。

口はきけてしゃべることはできましたが、自力では全く動くことができなかったので、急いで父を引きずり出し、救出しました。走って家に帰り、布団を乗せた“リヤカー”を持ってきて、父を乗せて、蘇原大島町の小野木医院まで走りました。

医院では、先生が酸素吸入器を付けて治療をしてくれました。発見が早かったことと、先生の治療のお陰で、幸いに父の意識は回復しましたが、遅れていたら大事故になったに違いありません。

“郷蔵のムロの中では、しゃがんで歩くのは良いが、立ち上がってはいけない”と、聞かされていました。寒い冬場ですから、暖を取るために、子どもたちがムロに入ると、よく叱られました。

密閉した部屋で、炭や練炭を燃やして、ムロの温度を上げるのですから、おそらく一酸化炭素中毒の危険を伝えるための、言い伝えであったと思います」

家みそ造りは、昭和30年代前半ごろに中止になり、郷蔵は取り壊され、その跡に消防車庫が建てられました。昭和50年代後半の宅地開発で、崖や段々畑は崩され、地形は変わり、面影は残っていません。

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郷蔵の跡地に建てられた消防車庫

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