浴びるほど飲んだ振る舞い酒
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公開日:2023/07/04
蘇原持田町には「イズミ3合」ということわざがあったそうです。“イズミ”とは嬰児籠(えじこ)のことで、乳幼児を農作業場などに連れて行く時に、赤ちゃんを安全に入れておくわら籠です。持田町の人は、イズミに入っている赤ちゃんの時から3合ぐらい酒を飲む酒好きだという意味だそうです。
酒好きの主人がいる家では、結婚式・法事・葬式では、訪問客が「十分飲めた。ごちそうさま」と言ってもらえるように、足りなかったと言われることがないように、余るほどの量の酒を準備しました。それが客をもてなすことでした。
福島県の民謡“会津磐梯山”の歌詞に「小原庄助さん なんで身上(しんしょう)つぶ(潰)した 朝寝 朝酒・・・・」とあるように庄助は酒が大好きで、身上を潰す、家計が破綻するほど酒を飲んだようですが、昔の持田町にはそれに近く、「酒代の借金で大切な水田を失った」という人がいたと聞きました。
今の日本で、バーやキャバクラで飲めばそれもありますが、普通に仕事をして社会生活をしている人が、酒屋で日本酒を買ってきて友人と一緒に酒を飲んだ場合、財産を失うより先に体調を崩し、健康を失うのではないかと思います。
昔は米の価格が高かったため、日本酒は今と比べると、極めて高価でした。日常的に酒を飲むことはできませんでしたので、村の祭り・神社の祭典・結婚式・法事・葬式など、年間に幾度もない特別な時の“振る舞い酒”は、酒が飲める貴重な機会で、飲めるだけ、浴びるほど飲んだそうです。
戦前の話だと思います。地域で祭りなどの行事があるときは、陶器の一升とっくりを、約3㌖先にある蘇原伊吹町の小町酒造まで持って行き、酒を入れて歩いて持ち帰ったようです。
この買い物は、酒好きのお使いが2~3人で出向く場合が多かったようです。酒好きが、めったに飲むことができない酒で満たされたとっくりを持って、気の合った友人とブラブラ歩いて帰るのですから、酒の誘惑に負けて少しだけ毒味をすることもあり、減った分は水を入れて量をごまかす。
「一杯だけ・一杯だけ」と言いながら、結局飲み過ぎてとっくりが空になってしまい、また小町酒造まで買いに戻る。朝、小学生が学校に行こうと通学路を歩いていると、途中の草わらの斜面に、持田町のおじさんが酔い潰れて寝ていたこともあったそうです。
これも戦前の話です。僧侶であった私の祖父は、極めて酒好きで、法務でお勤めに行った後の御斎(おとき=食事)では、自宅から愛用の杯を持参し、それを自慢しながら、朝の鶏が鳴くまで酒を酌み交わしていたと聞きます。
「老僧は酔って歩けないので、柿沢町から自転車で自宅まで送り届けたことがありました。酔った人を荷台に載せて、自転車をこぐのは一苦労でした。持田町の入り口の長い上り坂にさしかかり、自転車を引く時も、酔っ払った老僧は、荷台から降りてくれなかった。あんなに重い自転車を引いたことはなかった」(以前に柿沢町 小川幸三さんに聞いた話)
祖母は酒のつまみを作るのが日課でしたが、家に適切な食材が何もなかったので、やむを得ず庭にいる“カタツムリ”を捕まえ、殻を取り除き、炒めて出したそうです。祖父は「おいしい、おいしい」と喜んで「これは一体何なのか」と尋ねるので、祖母は「実は“カタツムリ”」と答えると、祖父は烈火のごとく怒ったそうです。
終戦後、間もなくの話です。食糧事情が厳しく、店では酒を売っていないので、酒を入手することは困難でした。しかし、村の行事や青年団の集まりでは、どうしても酒が欲しいので、密造酒を買いに行ったそうです。
どこに行けば密造酒が手に入るかは“公然の秘密”で、よく利用していたそうです。密造の情報が伝わり、時々“警察の手入れ”があり、造った酒が土間にまき散らされていたこともあったそうです。
持田町の行事の時は、公民館で日本酒の燗酒(かんざけ)を作りました。特別な器具はありませんでしたから、湯を張った大きな鍋に、陶器製一升とっくりを並べました。陶器製は頑丈で、熱に強く、簡単には割れないので使い勝手が良く、昭和40年頃まで使ったと思います。
その後は、緑色のガラス製の一升瓶を使いました。ガラスは熱の変化に弱く、瓶を鍋から取り出す時に底の部分が抜け落ち、割れてしまいます。それを防ぐ秘伝のコツは、“瓶の底に少しでも空気が残らないように、ビンを傾け、慎重に空気を抜く”ことだったそうです。
家庭に乗用車が普及するまでは、衝撃で割れやすい一升瓶入りの酒を運ぶことは容易ではありませんでした。そこで、トラックを持っている酒屋が、12本1ダースの一升瓶が入る木製運搬箱で、注文に応じて配達していました。
一升瓶は規格品で、酒造メーカーは関係なく、瓶を洗浄して完全なリサイクルで使われていましたので、空瓶は有償で売れました。
浴びるほど酒を飲んだ話を聞くと、“持田町の住民は酒しか楽しみがなかったのか”と思いますが、それは誤解です。50戸に満たない村でしたが、幕末には寺子屋が作られ、子どもたちは学んでいました。
大正時代には寺に私設の図書館が作られています。その蔵書の大半は、仏教関係書籍でありますが、他にも、囲碁・浄瑠璃・絵画のデザイン集・和歌・俳句関係の書籍が残っています。“狂俳”という俳句のような民衆文学の同好会がありました。日本画を習う人もいました。住民の文化は多様で、そのレベルは高かったようです。
今の持田町の住民には、昔のような豪傑の酒飲みはいません。飲み過ぎることなく、他人に酒を強いることもなく、誰もが健康第一で、適量飲むのが当たり前になっています。
上部がくびれ、縄を掛けやすく作られた陶器のとっくり。酒店の名前、場所、干支と番号などが書かれているが、干支と番号をどのように使っていたかは分からない。(小川輝良さん蔵)
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