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貴重なタンパク源だった野性動物

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公開日:2023/06/03

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戦前は、冬になると蘇原持田町を流れる正福寺川の源流付近の山に、渡り鳥のツグミがやってきました。捕らえるために“カスミ網”を張り、“おとり”をしかけた“トヤ(鳥屋)”が作られていたと聞きました。

“トヤ”は、夕方暗くなってからは野趣あふれ、ツグミを食べに客として川崎重工業の幹部なども訪れる人気の場所でしたが、昼間に訪れるとむしり取られた鳥の羽が散乱する無残な所であったそうです。

昭和30年代前半までは、青年や子どもが栄養補給のために、山中の獣道(けものみち)に沿ってカスミ網を張りました。朝学校に行く前に、風呂敷をかぶせカムフラージュした“おとり”を入れた鳥籠を、網の近くに仕掛けます。

夕方、学校から帰って急いで見に行くと、期待通り“シジュウカラ”“ホオジロ”“モズ”ヒヨドリ“などの小鳥が網にかかっています。小鳥も必死に逃げようともがくため、網が複雑に絡まって、多くは死んでいます。

生きている“モズ”ヒヨドリ“は、鋭いくちばしで攻撃してきます。鳥を網から外すのは一苦労で、やむを得ず網を破らねばなりません。羽を取り、包丁で腹を開いて内臓を取り捨て焼き鳥にしましたが、肉は少なく食べられる所はほんの少しだけでした。(小川輝良さん談)

蘇原持田町を流れる正福寺川は小さな小川なので、泳ぐ魚もモロコ、フナ、カワムツ、メダカ、ドジョウなど小魚ばかりでしたが、それでも食用にしました。(昭和20年代)

ただ、夏になるとウナギが遡上(そじょう)し、支流の水の少ない溝にまで上ってきました。昼間は土手の穴や石垣のすき間に隠れていて、簡単に見つけることはできません。そこで夕方に釣り針にミミズなどの餌を仕掛けておくと、翌朝に30㌢以上もあるウナギが捕れることがありました。これは蒲焼きにして食べたそうです。(小川豊一さん談)

持田池は農業用のかんがい用のため池ですが、魚やカメやスッポンやカラス貝がいました。夏になると木製の止水栓を抜き、池の水を農業用水に使いますが、数年に1度は全部の水を抜き(カイドリ<皆獲り?>と呼んでいた)、池にたまったヘドロをかき出し大掃除をしました。

その時に、次第に小さくなっていく水たまりに、フナやモロコなどの大量の魚、スッポンやカメや食用ガエルなどが集まります。網ですくい取り、竹籠に入れておきます。たまったヘドロを足で踏みこねると、ウナギが出てくるのでこれも捕らえます。獲物は少しだけ川の水にさらす程度で、持田町の公民館でみそ汁などに調理して食べました。

現代なら池や川の魚は泥臭いので、清水に長時間さらすだけでなく、調理法を工夫しますが、当時はめったに食べることができない貴重なタンパク源でしたから、魚が入っているだけでごちそうになり、泥臭さを気にしたことは全くなかったそうです。(小川豊一さん談)

稲を刈り取った後の水がたまっている湿田に、日本在来種のタニシ(ツボと呼んでいた)がいました。直径3㌢程度ある比較的大きな巻き貝で、子どもでも容易に見付けることができました。他人の水田に入ってタニシを採ることは認められていましたし、入札でタニシを採る権利を買い取り、ときにはそれをよその人に転売することもあったそうです。

シジミは、正福寺川でも砂地の決まった所にしか生息していませんでした。戦前の話ですが、小学生だった小川唯夫さんは時々シジミ採りに行き、病気の父親の滋養のためみそ汁の具にしたそうです。

野ウサギは農作物を食べる害獣でしたので、毎年村中総出でウサギ狩りをしました。長さ1㍍程度に切った青竹を手に持って、大勢の村人が山すそを囲むように並び、青竹で立木を叩いて大きな音を出しながら、「ホイホイ、ホイホイ」と大きなかけ声で隠れている野ウサギを追い出して、山頂に向かって追い詰めました。

ウサギは前足が短く、後ろ足が長いので斜面を駆け登るのは得意ですが、下ることは苦手でした。戦前は、網を持って待ち構えていた者が、上がってきたウサギに飛び掛かって捕獲しました。ウサギには必ずダニがいましたので、感染しないように素早く前足を折って、持ってきた布袋に入れました。(須衛町 白木護さん談)。

昭和30年代前半までの話ですが、持田町では鉄砲を持った猟師が山頂付近で待ち構え射止めました。

捕ったウサギは、公民館で食事係の者が皮を剥ぎ、解体し、野菜と一緒に五目ご飯にしました。ウサギの毛皮は、戦前は軍服の外套(がいとう=オーバーコート)の襟などにするため供出したそうです。

岐阜カンツリー倶楽部の建設工事を始めた昭和32~33年ごろは、すみかを追われたウサギが持田町の山に集まっていたのでしょうか。このころだけは多くの獲物があったそうです。例年は捕獲数は少なく、痩せた野ウサギばかりで、肉はダシになる程度で、肉がどこにあるかよく見ないと見付からないという具合でした。ただ、脂分はあり、水道も食器用洗剤もない時代、公民館の食器はどれも脂が残りベタベタしていました。

蘇原持田町では、戦前から農家はブタを飼育していました。子ブタなどが事故で死ぬと、解体して肉にし、近所の家に配りました。もらった家は、少しお礼を出しました。めったに食べることができない肉を入手できた感謝の気持ちと、せっかく育てていた財産のブタを失った当家の損害を、みんなで補填(ほてん)するという意味もあったそうです。

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ウサギ狩りをしていた持田町の山。今は野ウサギを見かけることはほとんどない

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