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戦後のおかず事情

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公開日:2023/05/01

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高度経済成長以前の食糧事情が厳しく、主食さえ事欠き、空腹を満たすことに一生懸命であった時代、副食の“おかず”はどのようなものを食べていたのかまとめてみました。

現金収入の少ない時代ですから、家で作った物を食べ、できる限り物を買わない自給自足的な食生活でした。

年中切らすことがなかったのがたくあんと梅干しで、おかずはそれだけという日も珍しくありませんでした。白飯と梅干しだけの弁当は、“日の丸弁当”と呼びました。

たくあんは、初冬になると採れた大根を少し干してから塩と麹(こうじ)で漬けました。漬物として食べるだけでなく、古漬けのたくあんは塩抜きをしてから煮物にしても食べました。

梅干しは、収穫した青梅を塩漬けにし、夏になると赤シソを加えて、天日干しを繰り返しながら赤いシソの色を染み込ませました。年を経た梅干しは、酸味と塩味がまろやかになり、食べやすくおいしくなりました。

その他のおかずは、自家製の農産物ばかりで、夏になるとナスやキュウリ、秋にはサツマイモやカボチャ、冬は大根、白菜、キャベツ(当時はカンラン<甘藍>と呼んでいた)、ネギを食べました。栄養のバランスといった考えはありませんでしたので、ナスが採れると、朝の味噌汁の具はナス、昼食のおかずはナスの煮付け、夕食はナスの焼いたもの。カボチャが採れると、朝の味噌汁の具はカボチャ、昼食のおかずはカボチャの煮付け、夕食もカボチャの煮付け。キュウリが採れると、キュウリの漬物、キュウリの塩もみ、キュウリの酢の物。白菜が採れると朝の味噌汁の具は白菜、昼食のおかずは白菜のおひたし、夕食も白菜のおひたし、と言った具合です。

クチナシの花は、センボク花と呼び食用にしていました。6月の梅雨のころ、畑の隅や土手で白い花を咲かせます。花を摘み取り、雄しべと雌しべを取り外し、花びらだけにして、軽く湯通しをし、酢みそや三杯酢で食べました。クチナシのよい香りが残って、季節を感じさせる珍味ですが、毎日クチナシでは飽きてしまい、いやになってしまいました。(小川輝良さん談)

山菜では、ワラビ・フキ・フキノトウ・ツクシ・セリ・ウド・ゼンマイなどを食べましたが、タラの芽やクレソンは知りませんでした。

どのようないきさつで栽培が始まったかは伝わっていませんが、蘇原持田町の数軒の農家では“ゴーヤ”と”オクラ”を栽培し、食していました。おそらく、県下の他の地域ではほとんど栽培されていなかったし、八百屋にも並んでいなかったと思います。

ゴーヤはニガウリと呼んでいて、ゴーヤという名前があることは知りませんでした。食べ方は、ナスと一緒に油炒めをしてから醤油味で炊いて食べるのが一般的で、ゴーヤチャンプルーという料理は知られていませんでした。苦みのある独特の味ですから、子どもが好きな料理ではありません。

オクラは若くて柔らかいものを収穫し、生のままで薄く刻んで、すったショウガと醤油を入れて、納豆のようによくかき混ぜて粘りを出して食べました。完熟したオクラの実を焙煎し、漢方薬を作る道具である薬研(やけん)ですり潰し、粉にしたものを煮出し“コーヒー”だといって、砂糖を入れて飲みました。味は覚えていませんが、甘くておいしかったと記憶します。

おせち料理と言えば、タツクリ・昆布・カズノコ・カマボコ・タマゴ焼き・酢レンコン・筑前煮を思いますが、バラエティーのある正月料理は必ずしも一般的ではなかったようです。

小川豊一さんのおせちの思い出は、「年末になると、母は大根を細く切り天日で乾燥させた“切り干し大根”を炊いてくれました。油揚げ、ニンジン、里芋、昆布などと一緒に醤油味で煮付けました。親戚などの来客時には、ご飯やお餅、汁、この煮物があれば十分ごちそうで、豪華でバラエティーのあるおせち料理はありませんでした」とのことです。

家でニワトリやチャボを飼育していましたので、卵はありましたが、飼育環境が良くないので、時々しか卵を産みませんでした。ためておいて、お得意さんの医者の家に売ったり、親戚や知人が病気になったときには、紙箱にもみ殻を敷き詰めそこに卵を入れ“お見舞いの品”にしたりしましたので、家ではめったに口にすることはありませんでした。

ニワトリ小屋で卵を見つけると、時には、生卵の殻に小さな穴を開け、白身と黄身を吸い出して、こっそり飲むこともありました。卵の殻は、砕いて鶏の餌にして、証拠を消しました。

家で飼っているニワトリは、時に“潰して”食べました。首をはね、逆さに吊って、血抜きをし、羽をむしり取り、解体して肉にするのですが、その光景を初めて見たときは、さすがにその肉は喉を通りませんでした。(小川高義さん談)

魚類は、煮干し、メザシ、ニシン、サンマ、サケなどの乾物、干物、塩漬けだけでしたが、それもめったに口にできないごちそうでした。

冷蔵庫がありませんから生魚を食べることはできませんでしたが、昭和32~33年頃、10月中旬の蘇原加佐美神社のお祭りの時に、岐阜の魚屋さんが出張して蘇原古市場町の辻に店を出しました。その時初めて刺身を食べました。(小川徳水談)

主婦は少しでもおいしく、バラエティー豊かな食卓になるよう色々工夫をしていましたが、味付けはみそ、醤油、塩にやっとウスターソースが普及し始めただけ。マヨネーズもドレッシングもありませんでした。昭和30年代中期に、地域の婦人会で卵の黄身、油、酢を使ってマヨネーズを作ることを教えはじめていました。

“煮る”か“焼く”が主な調理方法で、料理によっては“煎る”“蒸す”“茹でる”“揚げる”ことはありましたが、まきか木炭が燃料でプロパンガスは普及していませんし、フライパンはありませんでした。食用油は貴重でしたから、“炒める”ことはなかったようです。野菜の栽培には下肥を使います。寄生虫がいますので、生野菜を食べることはありませんでした。

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食用としていたクチナシの花

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