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江戸時代から続く報恩講

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公開日:2023/02/01

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美濃地方の浄土真宗の寺院では、秋から冬にかけて親鸞聖人の法事にあたる“報恩講”という行事が行われます。真宗寺院にとっては最も重要な行事ですから、仏様や本堂を特別に美しく飾り付け、“御斎(おとき)”と呼ぶ食事を参拝者に振る舞い、布教使を招いてお説教が行われます。

この行事がいつから、どのような形式で行われていたかは定かではありませんが、報恩講に掲げる「親鸞聖人絵伝」という掛け軸を、正徳2(1712)年に蘇原持田町の西嚴寺に本願寺から付与されている事実から考えると、少なくとも江戸時代から続いていたと思われます。

今ではその参拝者の多くは高齢者や寺の役員ですが、昔は、その寺の門徒と呼ぶ信者や地域の子ども、青年、他の寺の門徒など、近隣からも参拝者が集まる地域の大イベントでした。

主に昭和20~30年代ごろの様子を、70~80代の人に話してもらいました。

当時、各務原市内の真宗寺院の多くは、報恩講を11月から1月に開催していました。親鸞聖人の命日が旧暦では11月28日、新暦では1月16日とされていますので、命日に近いこの時期が選ばれています。農家は12月から1月が農閑期になりますので、この時期なら参拝がしやすかったという理由もあります。

現代では、農家が少なくなり、機械化などにより農繁期が短くなったこともあり、報恩講は寒さが厳しくなる前の10月から12月初旬に行う寺が多くなりました。

本堂には、 “おけそく”あるいは“おけぞく”、漢字では“御華束”と書く、飾り餅を必ず飾りました。

その作り方は、寺により少しずつ違っていますが、餅米とうるち米を1対1で混ぜ、よく水洗いし、ぬかを取り除きます。むしろに広げて一週間程度乾燥させてから、製粉所で粉に挽(ひ)き、餅粉にします。乾燥が不十分だと粉になりませんから、製粉所は引き受けてくれません。

報恩講の前日に、餅粉にひしゃくで湯水を加え、“耳たぶ”程度の堅さに練って生地を作り、それを熱が通りやすいように輪の形に整えてからセイロ(蒸籠)に入れて蒸し上げたものを、石臼でついて餅にします。餅とり粉を広げた板の上に湯気の出ている熱々の餅を広げ、厚さを1㌢程度に調節し、竹筒などの型で丸く抜き、直径2㌢程度の小餅を大量に作ります。

それを竹串に刺し、木枠に沿って円筒型に並べ、隙間がないように美しく盛り付けます。一晩乾燥させ、崩れないように固くなったものに、赤・黄・緑色の食用絵の具で美しい模様を描きます。この“御華束”をメインに、菓子・果物などを仏様に供えました。

“御華束”は、報恩講の伝統的なお飾りではありますが、大変手間と時間が掛かるものですから、今では作っていない寺院も少なくありません。

報恩講では“御斎=おとき”の接待が行われました。今では想像さえできませんが、前近代の身分制社会では、全てを身分別に行うのが決まりで、食事も身分別でした。例外は宗教行事としての食事、“御斎”でした。御斎は、身分を超えて参拝者が一堂に会し、同じ物を食べる伝統を受け継ぐ行事です。

御斎のメニューは、白飯・みそ汁・醤油炊きの大根、油揚げ、酢の物などですが、寺により多少は異なり、砂糖のたくさん入った白みそのみそ汁、唐辛子の入ったすまし汁、野菜の煮物、ヒジキの煮物、麩の辛子和えなどを伝統とする寺もあります。ただ、禅宗寺院の普茶料理のような洗練されたものではなく、地元でとれる食材を使った素朴な料理で、深い愛情のこもった“お手間入り”のごちそうです。

持田町の西嚴寺は、12月25日から28日までの4日間が報恩講で、25日に御斎が振る舞われました。以前に町内在住の小川勇さんから聞いた、戦前の話を紹介します。

「当時は、持田町の小学生は御斎に招待されていました。大麦や雑穀やイモなどが混じらない白飯を、お腹いっぱい食べることができる数少ない機会ですから、友人と誘い合って御斎に行きました。特に楽しみにしていたのが、大根と一緒に煮込んだ油揚げでした。報恩講以外ではめったに食べることができない貴重なごちそうでしたから、先にご飯・みそ汁・大根を食べ、大好きな油揚げは最後に食べようと、お皿に残していました。すると隣に座った友人が皿に残った油揚げを見つけ、「嫌いなら僕が食べてやるわ」と言って、油揚げを横取りしアッという間に食べてしまいました。最後の楽しみに残しておいたものを横取りされたので、悔しくて悲しく腹が立ったことを、60年以上昔のことですが、今でも忘れられません」

28日は“御満座(ごまんざ)”といって、特に大勢の人が参拝しました。

その年に結婚したお嫁さんは、義母に連れられ、和服に羽織の正装で参拝し、村の人々に紹介されるのが慣例でした。

持田町には店がなく、露店が来るのは、春の白山神社の村祭りと、西嚴寺の報恩講の2回だけで、子どもたちにとっては大きな楽しみでした。28日は二学期の終業式の日で午前中に帰宅しますが、学校帰りに店が来ているか偵察してから家に帰りました。昼食後、親に小遣い銭をもらい、寺に行きます。集まった友人と遊び、買い物を楽しみました。

畳2枚ぐらいの露店です。キャラメル・ニッキ飴・イモ飴・水飴・カリントウ・チューブ入りのチョコレート・センベイ・イカセンベイ・ポン菓子などの駄菓子。メンコ(パンコ)・かんしゃく玉と呼ぶ爆竹・カチン玉というガラス玉・リリアン編みという手芸道具などのおもちゃ。水で溶いた小麦粉を鉄板の上に広げて焼き、そこに小豆あんこをのせて丸めた“オダマキ”と呼ぶクレープのような焼き菓子を売っていました。

報恩講の最後は、お供え物の“御華束”を崩し、1人10粒ほどの小餅を参拝者に配布しました。子どもたちには、白より、赤・黄・緑の色のついた小餅の方が人気がありました。小餅は、家に帰って、火鉢の炭で焼いて食べました。

報恩講の翌日の29日は、境内にはゴミが散乱していました。普段なら木の葉か枯れ枝ぐらいしかゴミはありませんが、この日は菓子やオモチャの包み紙・紙袋・ヘギ(経木)というスギやヒノキなどを紙のように薄く削った包装材、爆発した“かんしゃく玉”の残りカスなどもありました。当時ゴミ箱はなく、ゴミは境内でも、道路でも、川でも適当に捨てるのが当たり前でした。「ゴミを出さない」「ゴミを持ち帰る」といった習慣は全くありませんでした。

 

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報恩講で親鸞聖人の前に飾られた“御華束”

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