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中学生が取り仕切ったやまのこ

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公開日:2022/12/26

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蘇原持田町の古老から「子ども時代に一番楽しみにしていた行事が“やまのこ=山神講”でした」と聞きます。そこで、昭和20~30年代の“やまのこ”の思い出を語ってもらいました。

稲刈りの農作業が一段落したころ、持田町の公民館に中学3年生を中心に上級生(男子のみ)が集まり、今年の“やまのこ”の相談が行なわれ、“やまのこの親方”と呼ぶ責任者と、その実施日程を決めました。大変だったのが、“やまのこ”の3日間、子どもたちが起居する“宿(やど)”を決めることでした。

当時の持田町公民館は、大正時代に建てられた8畳間が4部屋と土間のある木造で、節穴だらけの板の雨戸だけで、ガラス戸や障子さえ入っていない、隙間風の入る老朽化した建物で、宿泊には適していませんでした。

土間には、鉄製のハソリ(大鍋)用の移動式のカマドが2台あるだけで、常設のカマドはありません。プロパンガス普及以前の時代ですから、煮炊きは薪です。煙突はなく、炊事をすると家中に煙が充満し、煙くなりました。

井戸はなかったので、飲料水は近所の民家の井戸からバケツで運びました。30年代前半に簡易水道が設置されましたが、蛇口が1つだけ、流し台もなかったようです。茶碗・皿や鍋・釜は川に持って行き水洗いだけ。食器用洗剤はありません。調理台もありません。

トイレもなかったので、近所の民家のものを借りなければなりませんでした。

このような公民館ですから、民家に”宿”を頼みたいのですが、それも容易ではありません。子どもたちが食事と起居をするには、2部屋続きの8畳間と広い土間の台所がある大きな家でないと不可能です。

当時の子どもたちは、普段から家事を手伝っており、しかも、“やまのこ”は毎年の定例行事で、学年ごとに役割分担の伝統が受け継がれ、炊事には慣れていました。それでも、小・中学生が30人以上の食事を、土曜日の夜~月曜日の朝まで5回作るのですから、”宿”の父母・祖父母の理解・手伝いなしに、“やまのこ”が実施できるはずがありません。そこで中学生のいる家に“宿”をお願いしていました。時には、“宿”の引き受け手がなく、公民館で行なった年もあったそうです。

“やまのこ”は「神様の行事で、子どもたちのことであるから」と、子どもがいる・いないに関係なく全戸が、稲ワラ1把(わ)と、白米1合の寄付をしました。子どもが参加する家は稲ワラも白米も多く寄付し、割り木・シバなどの炊事用の燃料、白菜・大根・ニンジン・ゴボウなどの野菜類、神事用具を作るワラなども、持ち寄りました。

神事に使う稲ワラは、緑色が残った今年とれた“新ワラ”を使います。左巻きに編んだ“左縄”、頭にかぶる“サンダワラ”、お供え物を入れる“ワラ筒”、和紙を切って作った“御幣(ごへい)”も、子どもたちが大人に聞きながら自分たちで作りました。

“やまのこ”は、子どもたちが取り仕切っていましたが、全町民の協力の下に成り立っていました。今もその伝統が受け継がれ、全町民が協力をしています。

寄付集めの時や山神の神事に行く時は、みんなが大声で“やまのこ”の歌を歌いました。(故小川幸彦、記録)

“山の子様と言う人は、

1で“小屋をぶったてて”

2で“にっこり笑って”

3で“杯いなだいて”

4で“世の中えいように”

5で“何時もの若恵比寿”

6つ“無病息災に”

7つ“何事無い様に”

8つ“屋敷を廻って”

9つ“小屋をぶったてて”

10“とうおとうとう収まった、収まった”

食事の時は、「イタダキマス」とは言いません。茶碗に山盛りご飯を盛り付け、一本の箸を立て、その上にもう一本の箸を“T字”になるように乗せ、「シャのシャのシャン。おシャシャのシャン。もう一つのせ」と大声で掛け声をかけ、飯台を手でたたいて、上に乗る箸を落としてから、食事を食べました。この合図が、何を言っているのか、どのような意味なのかは、全く分かりませんが、続いていました。

“宿”での宿泊は、まだパジャマのなかった時代ですから、寝具に着替えず、昼間の洋服のまま、各自が持ってきた布団に雑魚寝をしました。よその家で友人と泊まるのですから、“親方”に「早く寝ろ」と叱られても、うれしくてうれしくてなかなか寝付けませんでした。寝相が悪く布団から飛び出している子ども、寝言を言う子ども、寝ぼけている子ども、おねしょする子どももいたと聞きます。

食事のサンマご飯や神事の後の焼きサンマは、まれにしか食べることができない“ごちそう”でした。大きなハソリでご飯を炊くときにできる“オコゲ”も、取り合いで食べました。おやつにお菓子を食べることはほとんどなかった時代ですから、大箱で買ったキャラメル、一斗缶で買ったカリントウを分けてもらって食べたことを覚えています。ノートや消しゴムをお土産にもらったことも、忘れられません。

山神の広場に、青竹や薪・小枝・落ち葉を積み上げて作った“小屋”は大きく、これに火を入れ燃やすと炎は高く上がり、おい茂る木々や竹に燃え移るのではないかと、子どもながらに心配することもありましたが、不思議なことに事故にはなりませんでした。

“やまのこ”の参加者は、当時は小学校1年生から中学校3年生までの男子でしたが、今は小学生の男子だけです。食事、宿泊、神事、“小屋燃やし”をする行事を、小学生だけで取り仕切るのは不可能ですから、父親や祖父が寄り添って世話をしています。

少子化で参加する子どもの数も少なく、昔に比べると“小屋”は小さなものになりました。消防署に届けを出し、消防団員が立ち会い、水などの消火用具を整えて“小屋”を燃やしますが、山神の広場には住宅街が迫っていますので、その行事の継続が難しくなっています。

 

ニュースイメージ1

蘇原持田町の“山神”の石碑に供えられた“御幣(ごへい)” “サンダワラ”“ワラ筒”“左縄” 

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