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今も続いている “やまのこ=山神講”

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公開日:2022/11/24

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各務原市内の各地に、“やまのこ”という男子の伝統行事がありました。今では廃れて行われていない地域もありますが、蘇原持田町では、少子化とコロナ禍でも工夫をしながら、今年もその準備が進められています。

持田町の神事が行われる所には祠(ほこら)はありませんが、“山神”という石碑が建っていますので、「やまのこ」の“やま”は、“山”のことです。

「山のこ」の“こ”を、子どもの“子”と書く場合もありますが、これは当て字だと思います。その理由は、持田町には、“子どもの山のこ”とは別に、“大人の山のこ“があるからです。子どもの”山神“とは別の所で行われます。メンバーは、持田町の住民全員ではなく、十数人の有志、つまり”講“組織で運営されています。

“やまのこ”は、“山神講”というのが、本来の言葉だと思います。

“山神”は木や草や水などの山からの恩恵を受けている地域の守り神ですから、“山神講”の神事は、恐らく子どもの行事として始まったものではありません。それがなぜ子どもの行事に変化したのか、その歴史やいきさつは伝わっていません。

この行事が男子だけの神事なのは、「山神は醜い女性の神で、美しい女性がいると嫉妬するので、男子だけに限定した」と伝わっていますが、真偽のほどは怪しいと思います。

昭和30年代の話です。“山神講”に参加するのは、中学生と小学生の男子でした。中学生が“親方”になり、企画・準備・運営を取り仕切り、炊事係・片付け係などは学年によって役割分担が決まっており、全て自分たちだけで運営していたそうです。

11月初旬の土曜日、子どもたちは持田町内の全家庭を回り、わらと白米の寄付を集めました。わらは、当時畳・ワラマットなどに使われており、売れたので活動資金になりました。

11月中旬には、村の白山神社の森で薪・小枝・落ち葉を集め、やぶからは青竹を切り出し、山神の広場に小屋を作りました。四方に青竹を立て、その内側に薪や落ち葉を積み上げるのです。

11月下旬の土曜日の午後から月曜の朝まで、“宿”の家で寝食を共にする“山神講”が行われました。学校から帰ると直ちに、寝具を持って“宿”に集まります。炊事・食事のためのハソリ(大鍋)・かまど・茶碗・皿・箸などは持田町の公民館の備品を借り出して、使いました。

食事は、五目ご飯・サンマご飯・煎り大豆飯・白飯、味噌汁やけんちん汁、白菜のおひたしや漬物、昆布や豆の佃煮でした。子どもの好きな料理の定番であるカレーライスは、この時代にはありませんでした。

暗くなると“肝試し”が行われます。指定の場所まで1人ずつ歩いて行き、新聞紙の上に置いてあるキャラメルを取って帰ってくるゲームです。街灯もない真っ暗な道を歩き、途中“脅し役”が隠れていてイタズラをしますので、恐怖でいっぱいでした。

夜はみんなと一緒に寝るのですから、うれしくてなかなか眠れません。

神事は、日曜日の早朝に行いました。朝4時ごろ“宿”を出て、竹筒に灯油を入れ布で栓をして作ったたいまつに火をつけ、「おえべっさま(恵比寿様)という人は・・・」という数え歌を歌いながら行進します。懐中電灯は使いません。

神事に携わる3人は、和紙で作った御幣(ごへい)・御神酒・わらに包んだ“お供え物”を持ち、先頭を歩きます。山神に近づくと、先に“火の神”である“秋葉山”に参拝し、続いて山神に“お供え物”を供え、参拝する神事をすませてから、暗闇に待たせている仲間を「もういいぞ!」と大声で呼び寄せ、作っておいた小屋に火を入れて燃やします。御神酒は、素手で受け、飲みました。小屋が燃え尽きるころに、サンマを焼いて食べました。薄明るくなったころに“宿”に引き上げました。

昭和35年ごろ、蘇原中学校から中学生が山神講に参加することが禁止されました。それ以降、“山神講”は男子小学生だけの行事に変わりました。小学生だけで山神講を取り仕切って行なうことは不可能ですから、子どもたちの主体性を重んじながら、男性の保護者が子どもたちの世話をして、伝統を守っています。

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「山神」と彫られた蘇原持田町“子どものやまのこ(山神講)”の石碑

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