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友だちと不発弾を見に行く

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公開日:2025/11/28

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土木建設工事は、現代では油圧ショベル・クレーンなどの重機が使われるのは当たり前ですが、昔は、全て人力で行っていました。

すでに太平洋戦争中に、アメリカ軍は飛行場建設などに、日本軍も極めて少数ではありますが、ブルドーザーを使っていたようです。戦後は、各務原のアメリカ軍基地でも使われていたようです。

昭和20年代に行われた蘇原六軒町から蘇原柿沢町を通る「蘇原中央通り」の整備は、アメリカ軍のブルドーザーを借りて工事を進めました。完成時に、工事に携わった柿沢・六軒地区の住民がそのブルドーザーにまたがった記念写真が残っています。

蘇原持田町の小学生たちが土木建設用重機を見たのは、岐阜カンツリー俱楽部の建設工事の時です。

昭和33年、各務原市蘇原北山町、権現山(北山)の山麓、戦前は陸軍六十八連隊の射撃場になっていた場所の山林を造成し、岐阜県最初のゴルフ場の建設が決まり、同年11月に起工式が行われました。

その情報は事前に地元に伝わり、今の市道303号線の西坂、蘇原飛鳥町の北端の起工式会場付近に、蘇原持田町の小学生が集まり、私もその1人として、遠目から眺めていました。

起工式のセレモニー終了後、早速、ブルドーザーがディーゼルエンジンの黒い排気ガスを吐きながら、カタカタカタカタと大きな音で、戦車のような鉄板帯状のクローラーを動かし、何回も何回も行ったり来たりしながら、車体前部にあるブレード(排土板)で山肌を削り、その土砂を押しながら運搬していました。

車体の底の部分に取り付けた削り刃で、土砂を車体に載せて運ぶスクレーパー重機もありました。それは、被けん引式スクレーパー(キャリオールスクレーパー)と呼ぶもので、車輪はありますが、エンジンはなく、小型ブルドーザーの車体後部に付け、引っ張られて動いていました。

ブルドーザーとスクレーパー重機で、見る見る間に山肌に残った松の木の切り株が取り除かれ、どんどん土砂を削り押しのけて、黄色いサバ土の造成地が広がっていくありさまは、小学生にとっては驚きの光景でした。

この工事を進めたのは、大日本土木株式会社という岐阜県を代表する土建会社でした。持田町にプレハブの建物で工事事務所や飯場が作られ、資材や重機が置かれていました。

今、工事現場で一番よく使われる油圧ショベルやクレーンや大型のダンプカーは、当時、見かけた記憶はありません。

工事が始まった初日のことは覚えていますが、通学路の隣で毎日進む工事は、小学生には日常の景色になってしまい関心がなくなったのか、あまり記憶にありません。

ゴルフ場造成工事のときに、持田町へ向かう道路(今の市道303号線)が拡幅され、すぐ横の谷川も改修されました。今までの通学路は、通行止めになり、迂回路が作られましたが、削り置きの土砂でぬかるんだ道路で、小学生には大変歩きにくかったことを覚えています。

もう一つは、工事中に大戦の空襲で投下された焼夷(しょうい)弾が、工事現場で見つかったことです。新聞にも載ったと記憶しています。

小学校4年生だった私は、6年生の2人の上級生について、通学の帰りに爆弾を見に行くことにしました。蘇原飛鳥町の西の洞を奥に向かい、ぬかるんだ工事現場を進んで行くと、やっと山中にある灌漑(かんがい)用の池を見つけました。水は抜かれ空池で、池の畔まで近づくと、10㍍ほど先に、長さ1㍍程度の爆弾が、横たわっていました。周りには、工事現場で丁張(ちょうはり)に用いる木杭と貫板(ぬきいた)で、目印になる程度の、簡単な柵が作ってあっただけでした。

現代、仮に不発弾が見つかったら、人が近づかないように立ち入り禁止になり、警備員が配置されるでしょうが、当時は小学生が近くまで自由に見学に行くことができ、特別に何もありませんでした。

ニュースイメージ1

大日本土木株式会社の飯場があったところ。工事終了後は、桐の木が植えられ雑用地になっていたが、最近、美しく整備された

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