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戦争被害をたくさん見た学徒動員の思い出

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公開日:2024/11/13

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岐南町下印食 那波三郎さん

2025年は80年の節目を迎える戦後ですが、実体験を語られる方がめっきり少なくなりました。96歳の那波三郎さん=岐南町下印食=はとても元気で、確かな記憶で戦時中を語ってくれました。

岐阜工業高校5年生の時に学徒動員で今の岐阜市六条にあった軍需工場へクラス全員が行きました。飛行機のプロペラの角度を変える歯車を作っていました。ある日、私ともう1人の同級生が呼び出されました。支那事変から帰ってきた上等兵と新兵と私たち学生2人の4人で、稲沢から沼津を走る軍需列車を護衛しました。機関車、石炭を積んだ車両に続く、屋根のない無蓋(がい)車に機関銃を積んだ車両に4人が乗っていました。後ろに荷物を載せた貨車が続きます。何を運んでいたのかは知りません。ばい煙で顔が真っ黒になり、せっけんがないから手でこすっていました。

東海道を何度も往復し、空襲に遭った町をいくつか見ました。焼夷(しょうい)弾は雨が降っているように見えました。あっという間に火の手が上がります。防空壕(ごう)は空襲に遭うと熱くて、中に逃げた人が真っ黒に焦げて、縮んでしまっていました。静岡の空襲では水路が煮えて魚が浮かんでいました。トタンに乗せて、空襲でおこった炭俵の上で焼いて食べました。成長期だったのでおなかが空いて仕方ありませんでした。浜松駅では戦闘機に狙われ、貨車の間を走って逃げたのを覚えています。ホームが吹っ飛んでしまいました。当時は予科練に憧れていました。とにかく、国のため、日本が勝つまで、カミカゼが吹いて日本は勝つと洗脳されていました。戦争が終わった時にはほっとしました。今は平和で幸せです。戦争が一番バカだと思います。

1991年にアメリカへ行き1カ月過ごしました。広くて設備も大きな国です。こんな国と戦争していたのだ、勝てるわけがないと思いました。

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