銀飯はごちそう
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公開日:2023/03/03
昭和35年の池田勇人内閣の所得倍増計画に始まる高度経済成長期以前の話です。
都市労働者の給与水準は低く、農家は米の他に現金収入を得る道はほとんどありませんでした。庶民には経済的に厳しい時代でした。
今と比較すれば当時の物価水準は低く、物の価格は安かったのですが、庶民の収入が少ないため、物の価格は相対的に驚くほど高価でした。
蘇原持田町の小川豊一さんの思い出話です。「昭和28年、中学校3年生の時の記憶です。“山のこ(山神講)”の時に子どもたちが食べる米は、参加者が持ち寄ったり、地域の人から寄付してもらったりして準備をしましたが、幸いなことにその年は行事が終わった時に白米が余っていました。米を売りに行くと、米屋では白米1升(約1.5㌔)を200円で買ってくれました。全部で5升(7.5㌔)ありましたので、1000円で売れました」。
比較しやすいように計算すると、10㌔で1300円程度になります。今と比べると白米は安価であったと思えますが、そうではありません。
豊一さんは「翌、昭和29年4月に川崎重工業に就職しましたが、その初月給が4000円だった」そうです。
仮に、豊一さんの初任給4000円で白米を買うとすると、30㌔程度の米しか買えなかったことになります。今年の新卒者の初任給(高卒者平均16万円程度)で白米だけを買うとしたら、現在白米10㌔で4000円程度ですから、400㌔くらい購入できます。つまり13倍もの白米が買える計算になります。
昭和30年ごろと現代では社会状況が違いますので単純に比較はできませんが、勤労者の給与からすると、白米の価値は今の13倍だったことになります。給与は極めて低く、相対的に米価は極めて高かったといえます。
おそらく昭和20年代のことだと思いますが、米がお金以上に価値があった時代もありました。「よく訪れる行商人がスルメ、煮干し、干物の魚、昆布などの海藻、下着などの衣類等を持ってくると、母は米びつから1升程度の白米を持ってきて、お金の代わりに米を渡していました」(小川豊一さん談)
米価が相対的に高価であっても、化学肥料も農薬もなく収穫量の少ない時代ですから、耕地面積の狭い零細農家は、決して豊かではありませんでした。
食糧管理法により、昭和30年まで決められた価格で出荷する“供出”が決まりでしたので、生産した米を自由に売ることは許されませんでした。自家消費分として備蓄したものを、供出米価格より高く“ヤミ米”として売ることはできましたが、これにも限度があります。
”米穀配給通帳”を使った配給制度で、消費者の米の購入が管理されていました。米に関しては、農家の作付け面積や生産量、出荷、流通、販売、購入を自由にすることは許されなかったのです。
”米穀配給通帳”を持っていない農家は、配給米を購入することはできませんでした。米を1年間自給できるように、葬儀や結婚式などで急に余分に米が必要になっても不足することがないように、秋に収穫が終わり新米の季節になっても古米が残るように余裕を持って備蓄し、ムダにしないように少しずつ大切に食しました。
「自分の田んぼで米を収穫しても、今年とれた美味しい新米は食べないで、古くなり味の落ちた古米や古古米ばかりを食べていました。新米は食べたことがなかった」そうです。
現代ならば白飯が当たり前で、健康志向で麦ご飯、雑穀等を混ぜた五穀米などが人気ですが、当時は白飯のことを“銀飯(ぎんめし)”と呼び、それだけでごちそうでした。
米を生産する農家であっても、白飯を食べるのは葬儀や法事や結婚式などの特別な時だけでした。日常は大麦、サツマイモ、大豆、雑穀、大根などを入れて量を増やした混ぜご飯を食べていました。米と大麦との配分比率は8対2程度が多かったようですが、家庭の状況によっては米が減り麦が増えました。ご飯の色は汚くなり、味も悪くなりました。
「学校に持って行く弁当を詰める時、母は、炊き上がった炊飯釜の上部に集まっている麦やイモを除き、米の多いところを選んで詰めてくれました。親は、麦やイモばかりが入ったご飯を食べていました」(小川豊一さん談)
少ない米でも、量だけは増やせるのが雑炊です。残り物の冷めたご飯に、残り物の味噌汁などの汁を入れ、水分で米の量も増やしました。味噌、溜まり醤油、塩で味付けをし、刻んだ野菜類も入れれば、おかずもいりません。作るのが簡単で、温かい食事になりますので、よく食べたそうです。
電気やガス炊飯器はありませんでしたので、まきをくべてかまどで炊かねばなりませんでした。手間が掛かるので食事のたびに米を炊くことはしないで、一度に多くの量のご飯を炊きます。冷蔵庫もなく、夏は残ったご飯が腐りやすいので、木製のお櫃(ひつ)に入れて井戸の中に吊り下げて保存しました。少し臭くなったご飯は、水やお茶で洗って食べました。
炊飯釜やご飯茶碗に飯1粒も残さないようにきれいにさらえて食べ、こぼしたご飯も拾って食べるのは当たり前でした。
木曽川文化史料館の“かまど”
全体にタイルが貼られています。炊き口は2つで、左は炊飯用の“お釜”、右はお茶用の“茶釜”。おそらく昭和30年前後のものだと思います
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